夏の夕立 

地図から消えた村の記憶

村の記憶3

平家の落人伝説は全国各地に伝わっている。

桑島もその中の一つだという話もあったし、村を出て町に住むようになって人から聞かれたときは、そうらしいと答えていた。

 

村に住んでいた頃の年寄りの会話の末尾には「ござりますのー」という言葉が付いたし、冬の仏事「ほんこさま」での男子の衣装は袴に裃だった。全く時代劇そのものの様子だったから、平家の落人なんだろうと漠然と思っていた。単純と言えばあまりにも単純な話だけれど、興味がないとはそういうものだ。

 

「村の記憶2」で桑島民謡集を何十年振りに見てから、水没前後の記録を見返してみようと思うようになった。

 

昭和53年10月に白峰村桑島区から出版された「桑島の里」は表紙に牛首紬が使われているとても立派なものだ。昭和34年と37年に発刊された白峰村史上下巻に収められなかった桑島区(旧嶋村)の歴史が綴られている。

 

第1章第1節 島村の推移「島のルーツ」。桑島の名称につては、古くからの伝承として福井県坂井郡雄島村が往昔外敵に襲われ、村民の一むれが白山の麓に隠れ住み、戦いが終わってもこの地に住みつき、雄島の名をかたどり島村と名付けたと言い継がれていた。

 

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言い継がれていた? 誰に?

そんな話、学校の社会の時間にも習ったことない。

村出身の同世代の仲間に聞いてみても、誰も知らない話だった。

いったいどうなっているのか。

 

「桑島の里」2ページから3ページには、福井の観光名所として知られる東尋坊のすぐ近く、雄島の安東(あんとう)地区に鎮座する大湊神社所蔵文書「高麗伝来御獅子略縁起」と「当浦謂聞書」が原文で紹介されている。続く解説によれば、文武天皇の時代(697~707)外敵に攻められて雄島の人々が恐れおののき、ここかしこに逃げ隠れしたとき、一むれの者が高麗から伝わった御獅子を守って白山の麓に隠れていたが、戦いがすんでもそのままそこに住みつき、雄島の名をかたどり島村と名付けたとある。

 

さらに当時の桑島区の人たちが大湊神社を訪ね、宮司さんから話を聞き資料を見せて貰ったと写真付きで説明している。そしてその中には「桑島民謡集」の編集者酒井芳永さんの名前もあった。