夏の夕立 

地図から消えた村の記憶

村の記憶3-2

令和元年7月、鶴来歴史研究会の辻貴弘さんの紹介で福井県三国の地域歴史博物館「龍翔館」を訪ねた。龍翔館は数年前に雄島の大湊神社に伝わる宝物を調査しており、その成果を保存していた。

 

見せて頂いた資料から次のことが分かった。

①「桑島の里」に記された大湊神社の訪問を対応したのは当時の松村千尋宮司だった。

②  松村千尋宮司は昭和30年台の初めに白峰村史の編纂が始まったころ、白峰村教育委員会に大湊神社が所有する桑島に関する資料を提供した。

 

確かに昭和34年に発刊された白峰村史下巻264頁に「島(桑島)の由来」として雄島との関係が2行だけ書かれている。

 

昭和30年台はじめの通信手段といえば手紙と電報が主だった頃。遠く離れた福井県三国と白峰村で資料のやり取りが行われたのは、やはり元になった言い伝えがあったということだろう。そして、その資料が大湊神社にあるということが分かるまでには、何かしらの調査活動が続いていたのだろう。

 

令和2年が明けて暫くしたころ、桑島の加藤改石さんが元気になったとの連絡を受けて自宅を訪問させて頂いた。前年から話を伺う機会をお願いしていたが、風邪をこじらせて入院したとのことで心配していたところだった。

 

加藤改石さんは西山産業が牛首紬を事業として始める以前からその伝統を守り続けてきた加藤機業場の親方で、現在は引退されご子息の修さんが継いでいる。

 

90歳を超えた改石さんは、天候が良い日には外を30分も散歩されるとのことで記憶も体もしっかりされていた。いろんな話をした。・・桑島が雄島の分村だという話しは昔から言い伝えられていたのか聞いてみた。

 

「ダムで村が水没して今の代替地に移住したころに初めて聞いた。その頃の区長が熱心で雄島との交流が何回か続いた」ということだった。

 

桑島の里にある「言い伝えられていた」という記録。昭和30年台初めには言い伝えの元になった資料が白峰村に届いていた事実。

 

言い伝えを知っていたのは、村の一部の人だったのかも知れない。