夏の夕立 

地図から消えた村の記憶

夏の夕立

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車庫に敷いたコンクリートブロック

ブログの名前をどうしようかと考えていたけれど。

 

写真のコンクリートブロックは自宅の車庫で撮影した。ブロックはダムに沈んだ村の学校のプールの周りに敷かれていたものだ。

 

移住が始まってしばらくした頃、学校を鉄球で打ち壊わす作業が始まった。村の建物は全て撤去することがダム補償の条件だったという。

 

ある日、父がトラックにたくさんのコンクリートブロックを積んで帰ってきた。取り壊わされる学校のプールから持って来たらしい。全ての人が移り住み、全ての建物が取り壊されるのだから、地面に敷かれたコンクリートブロックを持ち帰っても何の問題もないだろう。

 

あれからもうすぐ50年が経とうとしているが、プールの周りに敷かれていたコンクリートブロックは水の底に沈むことなく家の車庫にある。

 

プールができたのは昭和41年。夏休みには毎日のように子供たちの歓声がプールの廻りにあった。遊び疲れるとブロックの上に腹ばいになってする「ずいずいずっころばし」。3時には入道雲が大きくなり夕立がやってくる。夏の太陽で熱くなったコンクリートからあがる雨が蒸発する匂い。プールから帰る頃の蜩の鳴き声。

 

全てがセットになって車庫のブロックに繋がる記憶。プールは完成から9年で役割を終えることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

村の記憶3-3

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雄島と島村を1年ごとに往来したと伝わる獅子頭


令和元年7月13日、福井県三国の龍翔館を訪問したあと、大湊神社(陸の宮)を訪ねた。

現在の宮司さんは、桑島の里に記録された訪問を対応された松村千尋さんのお孫さんだった。お話を伺ったあと、宝物館で桑島との関係を示す資料を見せて頂いた。

 

遥か昔から伝わるという写真の獅子頭。雄島地区にある集落の祭りでは、今でもこの獅子頭を持ち廻っているそうで、さすがに劣化や破損が心配なのでレプリカを作ることも考えているとのお話だった。

 

この獅子頭を何百年も昔に桑島の人たちが見、約40年前には「桑島の里」の編集者たちが見、同じものをいま見ていると思うと感慨深い気持ちだった。

 

食堂に入って地元の人に雄島と桑島の関係について聞いてみた。

「そんな話は初めて聞いた」という答え。

どこの街でも村でも殆どの人の興味は現在の生活に向いていて、地域の成り立ちや歴史に向く人は僅かしかいないのが普通だろう。

「言い伝えられていた」と書かれた桑島でも、状況は同じだったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村の記憶3-2

令和元年7月、鶴来歴史研究会の辻貴弘さんの紹介で福井県三国の地域歴史博物館「龍翔館」を訪ねた。龍翔館は数年前に雄島の大湊神社に伝わる宝物を調査しており、その成果を保存していた。

 

見せて頂いた資料から次のことが分かった。

①「桑島の里」に記された大湊神社の訪問を対応したのは当時の松村千尋宮司だった。

②  松村千尋宮司は昭和30年台の初めに白峰村史の編纂が始まったころ、白峰村教育委員会に大湊神社が所有する桑島に関する資料を提供した。

 

確かに昭和34年に発刊された白峰村史下巻264頁に「島(桑島)の由来」として雄島との関係が2行だけ書かれている。

 

昭和30年台はじめの通信手段といえば手紙と電報が主だった頃。遠く離れた福井県三国と白峰村で資料のやり取りが行われたのは、やはり元になった言い伝えがあったということだろう。そして、その資料が大湊神社にあるということが分かるまでには、何かしらの調査活動が続いていたのだろう。

 

令和2年が明けて暫くしたころ、桑島の加藤改石さんが元気になったとの連絡を受けて自宅を訪問させて頂いた。前年から話を伺う機会をお願いしていたが、風邪をこじらせて入院したとのことで心配していたところだった。

 

加藤改石さんは西山産業が牛首紬を事業として始める以前からその伝統を守り続けてきた加藤機業場の親方で、現在は引退されご子息の修さんが継いでいる。

 

90歳を超えた改石さんは、天候が良い日には外を30分も散歩されるとのことで記憶も体もしっかりされていた。いろんな話をした。・・桑島が雄島の分村だという話しは昔から言い伝えられていたのか聞いてみた。

 

「ダムで村が水没して今の代替地に移住したころに初めて聞いた。その頃の区長が熱心で雄島との交流が何回か続いた」ということだった。

 

桑島の里にある「言い伝えられていた」という記録。昭和30年台初めには言い伝えの元になった資料が白峰村に届いていた事実。

 

言い伝えを知っていたのは、村の一部の人だったのかも知れない。

 

 

村の記憶4

北陸が大雪に見舞われているとTVのニュースが伝えている。

スーパーマーケットの棚が空っぽになっていると全国ニュース。

10年前の東北震災の時、水と食料をクルマに積んで向かった先でそんな光景を何度も見た。

 

今回の雪が大雪とは言っても、自分が20歳台の頃は毎朝20~30センチの雪が積もるのは普通だったし、道路が雪で穴ぼこだらけになることも普通だった。スパイクタイヤにチェーンを巻いて、ほとんどの人が後輪駆動のクルマで慎重に走っていた。

 

あれから35年くらいの時間が経って、世の中はインターネットが発達してスマホ一つで何でも調べることが出来るし、通販でなんでも買えるようになった。コンビニは24時間営業していて超便利な社会を作り上げたはずだった

 

昭和38年の豪雪。白峰村が孤立しているとニュースになり、自衛隊のへリコプターが河原に救援物資を運んで来た。左義長をする河原の広場に、本物のヘリコプターを見に人が集まったのを覚えている。

 

村には幾つかの店があり乾物や缶詰を売っていた。夏の間に畑で野菜を作り、秋の終わりには冬に食べる漬物や身欠きニシンと大根をつけた保存食を木桶に漬け、米や木の箱に入ったみかんや籾殻に埋まったリンゴもあった。

 

ニュースにはなったが、村の人たちは誰も困っていなかったという。

 

冬、村に届く郵便は週に何回か大人たち6~7人が大きなリュックサックを背負い、スキーの杖をつきながら隊列を組んで雪道を運んできた。昭和48年になっても朝刊が届くのは昼だったし、手回しの電話器で交換手に先方の電話番号を伝えて電話を掛けていた。

 

昼にセブンイレブンに行った。パンの棚は空っぽで、おにぎりの棚には細巻きが2本あった。北陸自動車道では1500台のクルマが立ち往生したらしい。

 

何時でも何処でも、すぐに連絡が着く。食べ物でも衣服でも、何でもが直ぐに手に入る。その仕組みを支える仕組みは、どれほど大掛かりなものなのだろう。

 

我々は本当に幸せな未来に向かって進んでいるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村の記憶3

平家の落人伝説は全国各地に伝わっている。

桑島もその中の一つだという話もあったし、村を出て町に住むようになって人から聞かれたときは、そうらしいと答えていた。

 

村に住んでいた頃の年寄りの会話の末尾には「ござりますのー」という言葉が付いたし、冬の仏事「ほんこさま」での男子の衣装は袴に裃だった。全く時代劇そのものの様子だったから、平家の落人なんだろうと漠然と思っていた。単純と言えばあまりにも単純な話だけれど、興味がないとはそういうものだ。

 

「村の記憶2」で桑島民謡集を何十年振りに見てから、水没前後の記録を見返してみようと思うようになった。

 

昭和53年10月に白峰村桑島区から出版された「桑島の里」は表紙に牛首紬が使われているとても立派なものだ。昭和34年と37年に発刊された白峰村史上下巻に収められなかった桑島区(旧嶋村)の歴史が綴られている。

 

第1章第1節 島村の推移「島のルーツ」。桑島の名称につては、古くからの伝承として福井県坂井郡雄島村が往昔外敵に襲われ、村民の一むれが白山の麓に隠れ住み、戦いが終わってもこの地に住みつき、雄島の名をかたどり島村と名付けたと言い継がれていた。

 

??

言い継がれていた? 誰に?

そんな話、学校の社会の時間にも習ったことない。

村出身の同世代の仲間に聞いてみても、誰も知らない話だった。

いったいどうなっているのか。

 

「桑島の里」2ページから3ページには、福井の観光名所として知られる東尋坊のすぐ近く、雄島の安東(あんとう)地区に鎮座する大湊神社所蔵文書「高麗伝来御獅子略縁起」と「当浦謂聞書」が原文で紹介されている。続く解説によれば、文武天皇の時代(697~707)外敵に攻められて雄島の人々が恐れおののき、ここかしこに逃げ隠れしたとき、一むれの者が高麗から伝わった御獅子を守って白山の麓に隠れていたが、戦いがすんでもそのままそこに住みつき、雄島の名をかたどり島村と名付けたとある。

 

さらに当時の桑島区の人たちが大湊神社を訪ね、宮司さんから話を聞き資料を見せて貰ったと写真付きで説明している。そしてその中には「桑島民謡集」の編集者酒井芳永さんの名前もあった。

 

 

 

 

 

 

村の記憶2

母の認知症が進行し始めた頃、昔の記憶を辿る事で元気になればと思い、村の盆踊りで歌われていた民謡を聞かせてみようと思った。

 

11月から4月まで深い雪に覆われ、春から秋までは屋外での土木作業や山仕事が中心の貧しい村での楽しみは少なかった。そんな暮らしのなかで盆踊りは数少ない楽しみだったと思う。

 

白峰村役場から発行された民謡CDに「じょうかべ」が収録されていた。運動場のスピーカーから流れるこの歌が周りの暗い山に木霊する風景と、何とはなしに昂る気持ちが盆踊りの記憶として自分の中にも残っていたことから、この唄にしようと思った。

 

歌詞を確認するために、家の本棚に桑島の民謡冊子があったと思い捜したが見つからなかった。引っ越しの時に整理したのかも知れない。興味がないとはそういうものだ。県立図書館に行けばあると思った。

 

書庫から出して貰った「桑島民謡集」は昭和50年9月に桑島民謡保存会が発刊したものだった。そこには懐かしい人達の名前があり、昔は若かったこともあってか興味を持たなかった掲載文に引き込まれていく自分がいた。

 

『じょうかべの起源はかなり古いものだと言われている。嘗て金沢大学の川口久雄先生がこの唄を探し求めて桑島の地を訪れ・・・・この唄は浄瑠璃から変化したもので数千年前に中国から渡ってきたものであると、その時のことを北国新聞で発表されたことがある』(桑島民謡保存集20ページ)

 

初めて知った話だった。

 

場所は県立図書館だから、探せばその記事に辿り着くことが出来ると思った。しかし文章には記事になった年も月日も載っていない。図書館の検索端末でキーワードを幾つも打ち込み、司書の方の手を煩わせながら資料を出して貰った。桑島の盆踊りが9月10日だったことが分かり、ならば新聞記事は9月11日~13日位だろうと見当をつけた。北國新聞の縮小版を順に捲っても記事は見つからず、「ここから先はマイクロフィルムを見ていくしかない。かなり大変ですよ」と言われたが、ここまで来たら、もう止める訳にはいかなかった。

 

そして見つけた新聞記事。そこには初めて知る「じょうかべ 目連尊者の地獄めぐり」の歴史と「桑島民謡集」の編集者として名前が載る酒井芳永さんの若い頃の姿があった。とても感動した。

 

酒井芳永さんは民謡集の編集後記で「手取川ダムはついに私共の平和と団結を根底から破壊してしまった」と書き残している。この言葉が桑島に関する記憶を頼りに調べたことをブログに残そうと決めることになった。

 

話を最初に戻すと、母の認知症は民謡を聞かせても反応は無かった。

もっと早くに聞かせていれば違ったのかも知れない。

 

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北國新聞昭和30年9月12日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村の記憶

去年の12月の初めに地域の歴史を研究している人から電話があった。

町にある神社と、近くの寺の歴史を知る人を紹介して欲しいということだった。

 

「たぶん居ないかも知れない」。電話を受けながら、そう思った。

 

この町はダムに村が水没することになり、集団移住先として誕生した。

神社と寺は水没した村から移した建物で、かなり立派なものだ。

しかし、村がダムに水没する計画が発表されて以降、村の人間関係は複雑になり、村の歴史を語る人も減った。ダムが完成してもうすぐ50年になる。当時の移住交渉を実際に見聞きした人たちも鬼籍に入る頃となり、ましてや神社仏閣のいわれを伝承している人はいない。

 

残っているのは白峰村村史に書かれていることくらいだろう。

 

ダムに水没して地図から村が消えた。そして、それは村の人たちが知っているだけ、言い伝えられていただけのこと全てが消えることだったと、最近になって気が付いた。